学会の朝、メイン会場開幕のセッションで基調講演を聴きました。登壇したのは、シャヤ・コックスさんという女性でした。陸軍の士官だった方です。司会のロバートが「彼女は自分では決して言わないけれど、道を切り拓いた人です」と紹介していました。本人は壇上で、そんな立派なものではない、という顔をしていました。
聴き始めたとき、私はこれを、誠実さの話だと思っていました。正直に話せば道は開ける。そういう、分かりやすい教訓に着地する話だろう、と。けれど聴くほどに、どうやらそうではないらしいと気づいていきました。彼女が正直を選んだ先に待っていたのは、道が開けることではなく、道が完全に閉ざされることだったからです。いったい、この話の何がリーダーシップと結びつくのだろう。私は途中まで、それが分からないまま聴いていました。
話は、ひとつの問いから始まりました。正しいことをすれば、自分の大切なものが壊れてしまう。そういう場面で、人はどちらを選ぶのか。たいていの人は、自分なら正しいほうを選ぶと思っている。けれど本当に試されると、大切なものを手放してまで誠実でいられる人は、ほとんどいない。誠実さというのは、何かを失わずに済むうちは、いくらでも大事にできるものなのです。失うものが出てきて初めて、その重さが分かる。彼女はそう言って、自分の二十歳の夏の話を始めました。
二〇一二年の夏、ジョージア州のフォート・ベニング。陸軍の降下学校で、飛行機から飛び降りる訓練を受けていた頃のことだそうです。卒業に必要な五回の降下を終え、あとは翌朝の点呼に間に合うだけ。そういう、気の緩む晩でした。学校の近くで飲酒をしないという規則がありました。けれど、特殊部隊の先輩たちに誘われて、一杯くらいなら、と口にしてしまった。気がつけば、翌朝の点呼に遅れていました。
指揮官の前に立たされながら、彼女は頭の中で計算をしていたそうです。飲んだ量と、卒業までの時間を割り算する。嘘をつけば、この場を切り抜けて、もとの学校に戻れる。正直に話せば、退学になる。良い成績をとってきたし、卒業すればヘリコプターのパイロットになる夢があった。その夢を、たった一晩の過ちで手放したくない。背中に汗が伝って、心臓が強く打っていた。それでも、扉が開いて「昨晩、飲んでいたか」と問われたとき、彼女は本当のことを話しました。
代償は、彼女の想像よりずっと大きいものでした。退学。そして、無駄にした学費として四十万ドルを返すか、軍で二年間務めて返済するか、という手紙。四十万ドルという数字には、彼女自身も首をかしげていました。一体どういう計算なのか、と。会場が少し笑いました。重い話の合間に、彼女はこういう軽口を挟むことのできる人でした。
実家に戻ると、退役軍人の父は、怒って口をきいてくれなかったそうです。子ども部屋の床に座って、自分が何を失ったのかをかみしめる。「お前に兵士は率いられない」。出ていくとき、上官にそう言われた言葉が、頭の中で何度も繰り返される。けれど、その拒絶の音よりも大きな声が、ふいに自分の中から聞こえてきた。誰もいない部屋で、彼女は声に出して言ったそうです。「できないと言うなら、できるところを見せてやる」。
そこからの話は、遠回りの連続でした。誠実に務めれば、もう一度あの学校に応募できる。そう知って、すぐに志願した。三つの仕事を掛け持ちしながら、入隊の制度と格闘する。中学のときの手首の骨折や、マラソンのあとの一時的な炎症を理由に、不適格にされそうになる。制度というのは、人の可能性を見るためではなく、人をふるい落とすために作られているのだと、彼女は淡々と言いました。
基礎訓練では「ウェストポイントの落第者」と呼ばれ、教官たちに容赦なく責められた。射撃訓練で聴覚保護具を忘れた日には、彼女のせいで全員が腕立て伏せをさせられた。百五十人の怒った顔が、地面に向かって並ぶ。教官は皮肉を込めて「ありがとうよ、モス二等兵」と繰り返した。それが、当時の毎日だったそうです。つらい時期は続かない、けれどつらさに耐えた人間は残る。彼女はそう自分に言い聞かせていた。
やがて再入学を勝ち取り、もとの同期から三年遅れて、また学生に戻ります。けれど卒業の十日前、また壁にぶつかった。パイロットになるための身長の免除が、却下されたのです。理由は、暴行を受けたあとにセラピーを受けていたこと。実はその少し前、彼女はワシントンで見知らぬ集団に襲われていました。なぜ自分が、という問いの答えのないまま、何日も泣いて家から出られなかった。親に言われてセラピーに通った、その記録が、今度は夢を阻む理由にされた。
絶望しかけて、彼女はカレンダーを見たそうです。三年遅れた、と思っていた。けれど、その三年のあいだに、世界のほうが変わっていた。歩兵科が、初めて女性に開かれていたのです。父がいた、あのいちばん過酷な兵科。ヘリコプターは諦めるしかない。それなら、次に大きな挑戦をしよう。彼女は歩兵を選びました。一つの扉が閉じても、別の扉が開く。あとは、そこを歩いて通るだけだ、と。
歩兵の士官になると、彼女はすぐ次の目標を見据えます。レンジャースクール。眠らせず、食べさせず、疲れ果てた状態で、頼れる技術もないまま部隊を率いることを求められる、三段階の過酷な課程です。仲間が遊んでいる夜や週末に、彼女は準備をした。それでも、二度落ちた。三度目の挑戦の前、ある教官に言われたそうです。「合格したいなら、完璧であれ。女だというだけで、公平には扱われない。男より上でなければならない」。不公平だ。けれど、あの場所で公平を期待するのは、おとぎ話のようなものだった。
三度目で、彼女は第一段階を一気に通過し、山岳の第二段階に入ります。ジョージア州ダロネガ、アパラチア山脈のふもと。一時間しか眠れない日が続き、一日一食で、八十から、ときに百二十ポンドの荷を背負って何キロも行軍する。暗闇の中、空腹と睡眠不足で、幻覚を見るようになる。あるとき彼女は、山の真ん中にワッフルハウスが見えたそうです。そこへ続く道もない、働く人もいない。それでも、熱いワッフルを焼いている気がして、食べたくなった。隣の仲間に「あそこにワッフルハウスがある」と言ったら、「黙れ、でないと張り倒すぞ」と返された。それくらい、疲れ切っていたのです。
課程が進むほど、人は限界へ追い込まれます。ある日、行軍の途中で前を行く兵士が崩れ落ちた。「この機関銃を、もう運べない」。誰かが代わらなければならない。けれど、それは分隊で分け合う装備なのに、全員が急に、自分のブーツだけを熱心に見つめ始めた。職場で誰かが面倒を引き受けるべき場面になると、急にみんな耳が聞こえなくなる、あれです。彼女は理屈で考えようとした。自分はこの山のいちばん小柄な生き物だ、自分が運べば荷は比率として重くなる、だから運ぶべきは他の誰かだ、と。けれど沈黙が、背負った荷より重くなっていく。頭が止めるより先に、口が動いていた。「私が運ぶ」。
そのとき分かったのだと、彼女は言いました。本当に何かを成し遂げたいなら、自分自身の境遇などを不憫(ふびん)に思い、かわいそうだと哀れむことをやめるしかない。自分の痛みや苦しみばかり見ているうちは、何も積み上がらない。けれど、誰かの重さを背負った瞬間に、自分でも知らなかった二度目のやってやるぞという勇気が湧いてくる。レンジャースクールをどう卒業したか、その話はとても単純なのだそうです。やめたくなったとき、やめなかった。ただ、進み続けた。それだけ。
卒業後、彼女は第八十二空挺師団で小隊長になります。女性として、ごく初期のひとり。着任して半年ほどの頃、歩兵の競技会に出た。正午のノースカロライナの日差しの下、重い荷を背負って遠くまで歩く。彼女の隊は十二組中、二位につけていた。あと少しペースを上げれば勝てる。「行くぞ」と急かす彼女の肩を、先任の軍曹が叩いた。「隊が、ずっと後ろにちぎれている。勝ちたいだけで、自分の隊をばらばらにしている」。勝つことより大事なものがある。彼は正しかった。隊として最後まで行くことのほうが、競技に勝つことより重い。
その先に、第七十五レンジャー連隊がありました。選抜を勝ち抜いた者だけが入る、最も過酷な任務を任される精鋭。すでに情報分析や人事で女性はいたけれど、歩兵で、レンジャー小隊を率いた女性はまだいなかった。彼女はその場所を望みました。選抜を経て配属され、まもなくアフガニスタンへ展開する。任務の半ばで、彼女は自分の小隊を得ます。二〇一九年、戦闘地域でレンジャー小隊を率いた、史上初の女性になった。
ここまで聴いて、私はようやく気づきました。これは、栄光にたどり着く物語ではないのだと。史上初、という言葉は確かにまぶしい結末です。けれど彼女自身は、それをまぶしい到達点として語っていませんでした。むしろ、これはハリウッドのようなめでたい結末ではない、と自分で釘を刺すのです。小隊長になって七か月ほど、ある日「また明日」と声をかけて帰ろうとしたら、仲間たちが互いに顔を見合わせ、聞こえないふりをした。拒絶の重さを背負うのは、つらいことだった。その孤独の中で、彼女は新しい目的を見つけます。自分は、ただ最初になりたいのではない。後から来る女性たちが、同じ壁と戦わずにすむように、道をつくるためにここにいるのだ、と。前例のないことをすると、拍手ではなく、強い批判と反発が返ってくる。けれどその傷は、やがて傷あととなって、後に続く人たちのための地図になる。
リーダーであるとは、大事な場面で正しい選択をすることだけではない。後から来る人のために道をつくり、その人たちの境遇を少しでも良くすることだ。彼女はそう語りました。そして、自分がいちばん苦しかった道は、実は軍の中ではなかった、と続けました。それは、自分の家の中だったそうです。軍を出て新しい生活を準備していた頃、夫が二重生活を送っていたことを知った。信じていた相手が、怖い相手に変わった。自分はどんなことにも耐えられる強い人間のつもりだった。けれど同時に、一歳の子を守らなければならない母親でもあった。彼女は、二親そろった家庭の安心も、思い描いていた暮らしも手放して、また実家に戻り、一から人生を立て直しました。
勇気というのは、坂を駆け上がるときや、ガラスの天井を割るときだけのものではない。未知の世界へ踏み出すときにも要るものなのだ、と彼女は言いました。立ち直る力は、戦場や会議室のためだけのものではない。居場所を確保するためのものでもある。望んでいなかった人生で朝を迎えるたびに、自分で選び直す、その日々の決断のことなのだ、と。
最後に、彼女は三つのことを残していきました。ひとつ、良心を忘れないこと。誠実さは譲れない。人は多くのものを奪える。けれど、誠実さだけは奪えない。それは、自分で手放したときにしか失われない。ふたつ、やり直しを信じること。正しいことをすれば、良い結果は必ず訪れる。たとえそれが、四十万ドルの請求書や、三年の遠回りという形でやってきたとしても。遠回りこそが、自分がなるべき人間になる、ただひとつの道であることが多い。みっつ、諦めないこと。
会場を出てからも、四十万ドルの話と、山の中のワッフルハウスの話が、しばらく頭から離れませんでした。重い決断の話と、思わず笑ってしまう幻覚の話が、同じ人の口から、同じ温度で語られる。たぶん、本当に過酷な道を歩いた人ほど、そういう話し方をするのだろう、という気がしました。
そして、もうひとつ残ったものがありました。彼女の話には、たしかに史上初という栄光の結果があります。けれど彼女自身は、それを栄光として握りしめてはいませんでした。終わった偉業としてではなく、まだ続いている挑戦として、淡々と置いていく。この人は、過去を語っているようでいて、いまも現在進行形で挑戦している途中なのだ、と思い至りました。
私がいちばん強く感じたのは、やめたくなっても、やめない自分を信じる力でした。何度も道を閉ざされ、誰にも信じてもらえない場面で、それでも自分だけは自分を信じ続ける。これを自信と呼ぶのでしょう。けれど、私がふだん「自信」という字面から思い浮かべるもの ── 何かがうまくいっている、結果が出ている、だから胸を張れる、というような自信とは、どこか形が違っていました。彼女のそれは、結果が出ていないとき、むしろ全部が崩れたときにこそ働く力です。これが本当の自信というものなのかな、と、聴き終えた私は想像するしかありませんでした。けれど、たぶんそうなのだろう、という確かさだけは、胸に残りました。
真実を話せば道が開ける、という分かりやすい話ではありませんでした。真実を話したら、いったん道は閉ざされたのです。それでも彼女が立っていられたのは、閉ざされた道の前で、自分を信じることをやめなかったからでした。リーダーシップとは何か、と途中まで分からないまま聴いていた私は、最後にようやく腑に落ちました。それはきっと、結果が約束されていない場所で、それでも一歩を選び続けられる力のことなのだと思います。私も、自分の遠回りの前で、そういう自分を信じていられるだろうか。次の会場へ向かいながら、しばらくそのことを考えていました。

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